昭和52年11月17日 朝の御理解



 御理解 第81節
 「氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへおりたら、それで安心じゃ。気を緩めると、すぐに後へもどるぞ。」

 お釈迦様が教えられたという、「この世は苦の世、苦の世界だ」と。確かにその通りであります。どんなにおかげを頂いた、頂いておる。と申しましてもやはり願わずにはおれない事が一杯あるという事は、そのままがやはり難儀であります。それを教祖は難儀とせず、苦の世界とせず、神様の言うならば御恵みの世界と見られ、そしてその難儀は、「そのまま氏子の心が愈々助かっていく事のための、極められ、研いていく事のための修行だ」と教えておられる。
 だから見方でそんなに変わってくるわけです。「一生が修行じゃ」と仰る「丁度学者が眼鏡を掛けて本を読むようなものであろうぞい」と仰せられるように、学問を身につけていく、その身についていくということが、自分にも感じられ、分かるから本を読むのです。信心さして頂く者もやはりそうです。修行のたんびんに自分が高められてまいります。修行のたんびんに自分が豊かになっていく事が出来ます。修行のたんびんに有難うなっていくのですから、楽しいのです。有難いのです。
 だからそれを難儀だと、苦労としたら、やっぱり難儀であります、苦労であります。その証拠には、信心が分かれば分かるほど縋らずにはおれないという事実に直面するのです。私共でも、私はもう夜中に何回も何回も、小用が近いから起きますから、起きますたんびんにやはり、手口濯いでお願いせんならん事が、もうたんびんたんびんにあるんです。もう言うならば、もう起きて枕が玉串庵であり、床の上ではありますけれども、願わずにはおれない事ばっかりなんです。
 と言う事はやはり難儀をそこに感じるから、願わずにはおれないのです。そこで最近、いわゆる、なら合楽の「願いの信心」というものが、何かがある時に、やっぱり願わずにはおられん、縋らずにはおられんというのではなくて、本当に、言うならば、天地の親神様と私共の関わり合いというものが分かれば分かるほど、縋らずにはおれないという事なんですけども。
 私は昨日大変有難い事を聞かしてもらった。これは私の思いが違っていなかっただなと、改めてまた確信づけられたような事でございました。というのは私が大阪の玉水さんとか泉尾あたりの、その願って願ってという願いの信心というものが、もう素晴らしい。ただ願という事が、なぜ願わなければおられんのか、なぜ自分というものがいよいよ分かり、もう分かって「われ鈍物である」という自覚に立たなければならんのか。
 なぜそういう「鈍物われ」に対して神様はおかばいを下さるのか、それが親であったから、子であったからだと分からせられるわけですけれども、そこが説いてないですね大阪の信心には。ただ先生方の信心の内容として、昨日井上先生が申しておりましたが、あちらへしばらくここの学院生、ここの修行生の方達が去年修行に行きましたからね。もうそれ何故願わんければならんのかという事はね、「もう言葉では言われん」とこう仰るそうです。もう言葉で表現する事が出来ん。
 その言葉では表現できない所を、ならばこれは山本先生が昨日研修の時、言ってましたが、合楽にはそこん所を親先生がズバリ、ズバリと言うて頂くというふうに言っております。だからもう心の中には十分分かっておられるけれども、表現のしようがない。なぜ鈍物、その鈍物であるという事を分かれば分かるほど、「信心も出来んのに神様がこの様におかばいを下さるんだ」と。それ何故おかばいを下さるのかわからなかったと。「それは親だから子だからだよ」という事に、合楽では言っているわけ。
 例え子供に不調法な事があっても「はあ家の子供がこんな不調法な事ばっかりしてから」とは、言わば世間に対しても言わない。いやむしろそれを隠してやりたい様な心が親心であるように、だからかばわれるんだと。だから親と子の情というものが愈々綿密になっていかなければならんのだと。これ程の教えを頂きこれ程の信心させて頂きながら、どうして分からん自分であろうかと、自分自身が愈々ギリギリ分からして頂いて、もう愈々「無力なる我」と言う事が分かれば、又分る程また縋らずにはおれない。
 そういう中から、成程天地の親神様だなというおかげがたち始めてくる。現われてくる。だから普通で言う、その願いというのとは違う。人間が持つ難儀性とでも申しましょうか。その難儀性に目覚めてみると、その難儀を何かにすがらずにはおれないのである。これもいくら無神論者というてもです。もういよいよギリギリの時の時には、矢張り縋らずにはおれないものを、内容に持っておるけれども、まあ言うならば、横着な事を言っておるに過ぎない。
 「いよいよの時には、そこにすがらずにはおれない」と言われております。だから難儀な時、困った時の神頼み的な、すがらにゃおれん、それは私共が一生、恐らく難儀を抱え続けていく事でしょうが、その難儀を感じる時に、願わずにはおられない、縋らずにはおれないというのは、今日の御理解で言うとです。十里の坂を九里半登っても、やれやれ安心が出ると、言わば、なあんでも無いような平穏無事のような時には、信心が皆んな疎かになってくる。そして何かそこにチカッとするような。
 その御無礼というか、御無礼しておった事に気付いたり、又は願わなければならないような難儀を感ずると、またお参りをする。又お願いをお願いの信心になってくる。という。そういう願の信心では、必ずだから油断が出るという事です、人間ですから。だから私は今日この「九里半登っても」という事をね、これはどんなんでも頂けますけれども、一生を通しての事だと、今日頂いてもらいたい。
 一生。だから言うならば、安楽往生させて貰うて初めて、向こうへ降りたという事になるのです。いつも私共は八里又は九里、九里半の所にいつもあるんだと。だからそこに油断、すがらずにはおれない内容が生まれてくると、油断は禁物というのではなくて、油断はされない事になるのです。「もう親先生たちは、あんなおかげ頂いちゃあるけん、そんな願をされる事あるまい」と思う人もあるかも知れんけれども。
 もう願はねばならない事がいっぱい、目覚めにも言わば目覚めた時には、もうそこに願わねばならない事があるのである。ですからここに油断が起るはずがない。九里半登ったからとて、やれやれ安心と言う事が無い。そういう信心が身について来て初めて、教祖が仰る、「油断をしてはならん」と仰せられる所ではなかろうかと思う。
 昨日私、研修の時に、本当にありがたい事を頂いたというのは、末永先生がこういう事を言っております。まだあちらへ、ビルグイに参ります一年くらい前だったでしょうか。熊本地区の青年教師会が、矢野先生の所ですね、あちらの木山教会でございました。それで安田先生と心安いもんですから、「末永先生、あなたも出て来ないか」と誘いを受けて、一晩泊りで矢野先生の信心を頂こうという研修会に出たんです。その時に矢野先生がおっしゃたことを、昨日あの研修の時に発表するんです。
 最近合楽で言われる願いの信心、その中に私が、あの言うならば、御礼の信心、お詫びの信心、尊い信心だけども、玉水の湯川先生が「お願いの信心は必ず行き詰まる」と仰っておられたところに、私も行き詰まりを感じ、そして「願いの信心」と言うのが最近説かれておるわけなんです。以前は私の話の中にたくさん残っております。「もう自分の事は願った事はなか、もう御礼さえ申し上げときゃおかげ頂けれる」というふうに、皆さんも聞いてもらった。
 「もう徹底して御詫びをさしてもらえば、徹底した御詫びは神様に通う。神様に通うという事は、御礼でもお願いでも御詫びでも、神様に通うという事においては同じだ」というふうに皆さんに聞いてもらった。けれどもその親子の情という、言うならば、ものが分かって来れば来る程に、今度は「願いが最高の信心だ」というふうに聞いて頂いておるわけです。いやもう願わずにはおれないのだというのです。だからねこの辺の所、皆さんも大変間違えておるようです。
 「まあ本当、先生お願いする事ばっかりです」というそれとは違う。その辺の所ようく区別をしときませんとね。いわゆるあの結局先日からもただ一身一家の為、所謂一城一家の為に命を懸けて、例えば命を捧げてもです。それは一城一家に捧げたのであって、白虎隊のような結果にしかならんというね、御理解頂いたでしょう。だから本当にその親だからと言う所にいわば立っての、子だからという自覚に立っての、いわば成程親様じゃ親神様だと分からしてもろうての願いですから、この情念というものが強くなるという意味においては、だから限りないだろうと思うです。
 そういう意味で例えば玉水の湯川先生とか、泉尾の三宅先生あたりなんかは、誰よりも誰よりも強いものを持っておられたと言う事になるわけです。そこで「願って願って」というような信心が生まれたんだと。確かに御礼の信心は行き詰まる。そこから行き詰まった向こうに願の信心があったと。おそらく甘木の安武先生も、恐らく成程甘木の信心は御礼の信心、もうそれこそ「七分は御礼なら、願いが三分」というふうに仰せられとったという事ですけれども。
 成程最後までそれを言い続けてこられたけれども、御自身としては、信者に、過程においては、やはり「お詫びだよ、お願いだよ」「しっかり神様にお願いせにゃな」と、もうその「しっかり神様に御礼を申し上げなきゃ」という事は、もうそれこそ食いにじること仰ってたそうですね。おかげを頂いて、御礼に出てくる。それでもう「一遍お礼したけ終ったと言った様なこっちゃできんばい」とね。
 もう神様には全部御礼ば申し上げなならん。その厚うく御礼申し上げならんと言う事が、もう言いなさらんでよかろうという程繰り返し仰たそうですね。だからふっとやっぱ、聞いとる内に気付くわけです。ああこげな事であってはならん。こげなこんくらいのお礼じゃでけん。まあ昨日から頂きますように、そういうおかげを頂いたんだから、神様のお役にも立たせて貰わなきゃならんと言う事を、促されたのであろうと思います。
 昨日、細田さんのお話じゃないけれど、本当に言うならば、ない命を助けて頂く程しの万事お繰り合わせを頂いた。ただおかげを頂いて、お礼参りしたらおしまいということではなくて、神様が私に一つの願を懸けてごさる。思いを懸けてござる。からこそこういう九死に一生と言う様なおかげを頂いたんだから、その神様に報いなければおられない心を、まあ促されたわけでしょう。
 「厚うく御礼ば申し上げなならんばい」と言う、もう甘木の親先生がです、御晩年の頃の御神前で御祈念をなさる、修行生も一緒にあの御祈念をさしてもらう。ある事をあるところまで御祈念が来られると、「後は全部よろしゅうお願い申しまする。よろしくお願い申しまする」が、もうそれこそ、もう限りないと思われるくらいに繰り返したそうです。このことばっかりを。これは矢野先生が孫弟子の時代に、甘木でです。
 とにかく御祈念さして、あんまり長いから途中で立って、ちょっと遊びに行って帰って来たっちゃ、まあだよろしゅうお願いしますと言いよんなさったちゅう事です。私それを聞いてですね私の信心が間違っていなかったと。というものを昨日感じさして頂いてね、本当に有難いと思いました。確かに私もそうであろうと思ておった。御晩年の頃にあれだけの御比礼を、例えば頂きおかげを受けたのですから、確かに御礼とかお詫びとかはもうもうぬけて、もうそれこそ願わずにはおれないという信心にね、もうそれがです。
 「どうぞよろしゅうお願い申しまする」それの繰り返しだったそうです。それであんまり長いから、ちょっとその辺へちょっと遊びに、遊びというわけでもないだろうけれども、席を外して帰って来ると、まあだその「どうぞよろしくお願いします」を仰っておられたということです。ですからそういう願に立ちまして初めて、油断なんかはとても禁物というのではなくて、油断はされない。「一生が成程修行だ」と言われることは、「一生難儀というものはついてまわるんだ」と。
 どんなにおかげを頂いて、けれどもやはり「願わずにはおれない事はもうついてまわるんだ」とそれをお釈迦様は、「この世は苦の世苦の世界と」まあ言われたとするならばです。教祖は、そこん所を「一生が修行じゃ」と仰せられた。だから「一生が修行じゃ」という、言うならば生き方を身に付けながら、そして安楽往生させて頂いた時に、向こうの山へ移った時に始めて安心。これはもう御霊の世界でも、こういう事がただ、言うなら願い続けていかれる事だけであって、肉体がございませんから。
 そういう信心のお徳を受けて参りますと、御霊になってからはもう痛いとかね熱があるとか、腹がじくると言った様な事が無くなってしまうわけ。それでも魂の清まりと魂の言うならば喜びの御霊、安心の御霊としての精進は、もう限りなく続けられていく事でしょうけれども、私共がそこまで至って初めてやれやれ安心だ。山を言うならば「十里の道を九里半行っても、十里の道を登り切って向こうに初めて安心という、所謂安心の御霊喜びの御霊」という事になるんじゃないのだろうかと言う風に今日は思うんです。
 昨日私研修の時に、昨日はうかつな事でありまして、その、やっぱり神様の御都合だったと思うんですね。テープに入ってないんです。もう昨日の御理解は皆さんも聞かれたようにあれは二度と繰り返してお話できるお話じゃなかったんです。もう本当に惜しいと思う、昨日いつも高芝さんが見えて、こうして入れられるから、そう昨日高芝さんも見えていないです。他にもたくさん扱っておるとにも、全然あちらの方で入らんごとしとったげな、間違えちから、それで入っとらんわけです。
 それで今日は皆さんが、二十名なら二十名の修行生の方達が、自分達の覚えとる所だけを出しあって、一つの、昨日の御理解を再現しようという事に致しました所が、もうそれこそ、もう迂闊と言うたら迂闊ですね。「またテープでゆっくり聞いちからまとめようと、こう思とった」皆そう言うんです。だからなんにも残っとらん。もう本当に昨日の御理解は惜しいでしょうが。それが残ってないのです。
 しかも高芝さんがこうして目の前に、いつも入れて行かれるから、その昨日参っておられたら、それば高芝さんのっとん借って、あちらへ電話を掛けて言よります。「いや駄目ばい、あそこは、今朝来ちゃなかったけんで」と昨日は申しましたことでしたけどね。まあ言うならば、「天に任せよ、地にすがれよ。神はわが本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じ事ぞや」という。もう信心は、もう神に孝行するも同じ事だと言う所が分かればです。天に任せて、地にすがらずにはおられない。
 天地の親神様に任せ切って、これをねいつもだったら、何かもう医者にも見放された。もう頼る縋るところもない。という時にもう任せるより他はない。そして地に縋ると言った様なね。原 昌一郎さんが、もう死ぬか生きるかという時に、私があちらのお父さんに申しましたね。「とにかくあんた、もう医者も薬もどうにも出来んじゃないの」と、「裏の田んぼに、畑に出てそれこそ天に縋る。
 任せて任した所を私が願う。だからもう大地に縋りぬいてから、縋りぬきなさい天に」そういう時に、これは大変生き生きとして、響いてくる御教えなんですけれども、そうじゃなくてです、「神はわが本体の親だ」という事が分かったら、あなたに任せ切っておりながらも、やはり縋らなければおられん事は、一杯あるんだという御理解だったんですよね昨日は。末永先生が六年前に、御霊様へのお供えをした。
 そん時には超特級ばかりを式年祭でしたから、六本借りとったちゅうね、だからその時分の金額で九千円だった金額が、超特級ですから、けれどもその時借りとったなりに、忘れたわけではなかろうけれども、放任しておった事を、今度の昨日一昨日のやっぱり同じお祖父ちゃまの式年じゃないけども、帰幽日でしたから、兄弟子供たちが孫たちが集まって、お祭りをさして頂いて、前の借金ばいどんがあったちゃ御霊さんに相済まんという所から、自分その九千円のお返しせんならん金を懐に入れて、御礼に出てきた。
 それ前に神様が頂いたのは、そういう例えばね、表は大事にするけれども、裏は大事にしない。目に見えるところは大事にするけれども、目に見えないところは粗末にする。というのが、反対に目に見えないところ程大事にするという生き方に、神様が感じなさるという御理解でしたよね。もう私は本当に昨日、一昨日のそのこと頂いて以来、こっちは、それけんちゃ、心を粗末にしておると思いませんけれども、いよいよ以て、目に見えないところを大事にしなければならないな。
 神様から感じられる程しのこちらがいかに神様に感じても神様の方が逃げなさるようなことじゃできん。もうこれの腹の汚い事と、思われなさったら、神様が向こうを向きなさる、いくらこっちが縋って行っても。神様がほれぼれとして、言うならば見直しなさる。いやほれぼれとして神様が感じなさる。またこちらが感じる。そこから本当の交流というものが成されてくる。そこから生みなされる信心が、素晴らしいんだよ。徳だよ。おかげだよという御理解でした。
 だから神様から感じられる程しの信心、私はそのことを頂いてここへ出てきたら、末永先生がその事を懐からおもむろに出して、九千円の金をだしてね、これは六年前にお借りしておった。「親だから子だから、そげな厳儀同断なことせんでいいじゃんの」と言うごたるけれども、親子の中でもやはり、礼儀はあるという事です。やっぱり心の中に引っ掛かっておるのが、六年先にも、十年先にもあっとたんじゃ、もうそれだけでもおかげ頂かんのだと。眼に見えないところを大切にする。
 言うならば、末永先生のその心に、神様がまた惚れ直しなさったという感じがするんです。だから信心はここにね、四神様の言わば御教えの中に、「眼に見えるところだけを大切にして、眼に見えないところを疎かにします」というふうに仰った。だから、信心ちゃそれどころじゃなかった、皆が知ってますもんね。「口に真を語りつつ、心に真のなき事」と、誰でん知っとる。そうでなからならん事も知ってる。
 けれどもなかなか自分な口ではむごう言いよるばってん、心で反対のことを考えておると言った様な、そこに脱皮することが出来ない。そこに昨日のように私、実感としてです。これはもういよいよ以て、心と形の裏腹なことどんを言うたりしたりしてはならんぞと、もう愈々思わずにおられなかった。神様が感じなさるどころか、反対に逃げなさる。だから神様に、感じられるくらいな信心は頂きたいもんだと言う事です。
 まあこれは昨日の御理解の一部分ですけれどもね、私は昨日だから先生たちに申しました。もう「おかげの泉」が一番始めに発刊の時に、これは確か佐田さんが頂かれた御理解だったと思うんですけれどもね。あのう神様んでも御霊様んでもね、何て言いましたかね。「信心はねもう一本勝負だ」という事でした。後からてんなんてんちゅ事はもうそれだけ駄目だという事なんです。神様にでも御霊様に対してでもです。もう私なんか神様に向こうたが最後一本勝負なんだと。二本とか三本勝負ちゅう事はもうない。
 それをなら私昨日又改めてね、あなたたちがその御理解それこそ、眠り半分でもなかろうばってん、また後からテープで聞き直さしてもろうて、そん時まとめようというような考えだったから、一ちょうも残っとらん。もう御理解を頂いた時に、その場で頂き止めておるというのが一本勝負なんだ。まあよかよか後からまたテープで、そしてゆっくりそして何遍でん聞いちからまとめよう。それはもう纏めただけであって、自分の物にはならん、そげなこっちゃ。
 改めて修行生の方達にですね、本当に信心は一本勝負だなと言う様な事を、まあ感じさせたような感じでした。ですから皆さんでもそうです、御理解というものは、もう私がいつも言うもうこれはね、「親先生の遺言だと言う様なつもりで頂なさいよ」と。そして一本勝負だと。もう二度と聞かれんのだと。という私は御理解を頂くなら、そういう姿勢がいると思うです。そういう姿勢と同時にです。
 今日の御理解をまた頂いて下さったわけですけれども、成程油断が出るというのは、まあだ縋らずにはおれないという信心、願いの信心に立っていなんだ。自分が鈍である事も自覚が出来ていないし、本当に親だな子だなという天地の親神様とは言うてはおりながら、まだ親神様と感じ切っていないのだし、だから神様がおかばい下さるんだと言う様なふうにも頂き切っていなかったと言う事を、改めてまた分からしてもらい。
 いよいよどんな場合であっても油断が出んで済む、油断は禁物というのじゃなくてね、もう油断をせんで済む。言うならば、学徳が身に付いて行くことが楽しいから、学者が死ぬまで本を読むように、私共の信心が、教祖が仰る一生は、「この世は苦の世苦の世界」にせずにね、「一生が修行だ」という頂き方の所に、高度な修行が段々出来、信心も段々高度な信心が頂けてくるようになる。
 そうして、あの世に行って初めて、やれやれ安心だというような事。今日は一こま、一こま、という意味ではなくてね、一つの願い、もうここまでおかげ頂いたけん大丈夫といったような心を起こさずに、頂きぬくまでは頑張らにゃんばいという頂き方ではなくて、そういう意味もあるんですやはり。けども一生を通してという意味で今日は聞いて頂ましたですね。
   どうぞ。